東京都東久留米市のマンションの解説

江戸時代の近郊農村は、戦後の大規模団地造成で急速に発展した住宅都市
 東京都東久留米市は、都心から北西へ約24km、武蔵野台地のほぼ中央に位置し、北東は埼玉県新座市、西は東村山市、南は西東京・小平の2市、北は野火止用水を隔てて清瀬市に接する。標高70mから40mの範囲を西から東へなだらかに傾斜し、市の中央を黒目川・落合川が東に流れている。環境省の「平成の名水百選」に都内で唯一選定された「落合川と南沢湧水群」に代表されるように、清冽な地下水が豊富なエリアで、川沿いの至る所に湧水が見られる。

東京都・東久留米市のマンション
 2016年、東京都東久留米市で販売された新築マンションは無かった。また、同市内の中古マンション相場価格は1948万円〜3812万円だった。
 東久留米市の2018年1月現在の人口は、11万6858人で、そのうち外国人は1954人。総世帯数は3万3669世帯である。同市総面積は12.92平方キロメートルだ。

江戸時代に新田開発が進んで開発された大江戸の食糧基地
 奈良時代や平安時代の東久留米の市域は、米づくりに適さなかった土地のためか、小さな村がいくつかあっただけだった。それほど多くない遺跡群で小さな集落跡があったことが、調査で分かっている。

 しかしながら、江戸時代になると、武蔵野地区は大江戸の食料供給地としての役割を担うようになる。同市域では、正保年間(1644年から1648年)に、門前・神山・落合・小山・南沢・前沢・下里の7カ村の農村があるに過ぎなかった。が、その後、元禄期に柳窪村ができ、享保年間(1716年から1736年)になると、幕府の新田開発の奨励により前沢新田や柳窪新田が開墾された。

 同地区の特産品として「柳久保小麦」が有名だ。江戸時代の1851年(嘉永4年)に現在の東久留米市・柳窪の奥住又右衛門が、旅先から持ち帰った種により栽培が行なわれていた小麦品種だ。香りや味がよく「うどん」の材料に適し、背の高い麦わらは茅葺き屋根を葺く材料に向いていたが、収量が多い一般種の小麦に駆逐されて戦前に姿を消した。1988年に又右衛門の子孫が農林水産省生物資源研究所に保管されていた種を譲り受けて生産を復活し、現在、市の特産小麦として栽培される。

 1868年に明治政府が誕生すると、市域は行政的に大きな変化を受ける。明治2年には品川県、5年には神奈川県に編入され、その後数度の変遷を経て、1889年(明治22年)に門前・神山・落合・小山・南沢・前沢・下里・柳窪の8カ村に、柳窪新田・栗原新田・各飛び地を編入して久留米村が誕生した。

 久留米村の名称は市内を流れる「久留米川」から付けられたというのが一般的だ。また、現在の黒目川は、江戸時代の文献や石碑に「久留目川」「来目川」「来梅川」などと記されており、明治政府が編纂した『皇国地誌』には「久留米川」と残る。

1915年に開業した武蔵野鉄道と東久留米駅の開設が、市域の発展を促す
 1915年(大正4年)に池袋〜飯能間で開業した武蔵野鉄道(現・西武池袋線)、そして東久留米駅の開設が、それまで典型的な農村だった市域の発展・変革に大きな影響を与えた。

 東京近郊農村だった久留米村は、第2次大戦後人口が増加し、1955年(昭和30年)に、1万人に達した。翌1956年(昭和31年)に町制が施行され、ひばりが丘団地・東久留米団地・滝山団地・久留米西団地などが次々と建設され、人口は急激に増加する。とくに昭和35年(約1万9000人)から45年(約7万8000人)までに4.1倍の増加を記録し、日本でもっとも人口の多い町となった。

 そして、1970年(昭和45年)、東京都で22番目の市として市制が施行される。その際に、福岡県久留米市と行政的な混同を避けるためや、当時の町民から親しまれていた駅名の「東久留米」を希望する声が多く、現在の市名に決定した。

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